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紀州藩から見た伊呂波(いろは)丸沈没事件

和歌山

 

 

慶応3年(1967年)4月23日の夜(午後11時頃)、瀬戸内海の鞆ノ津沖で、長崎に向っていた、紀州藩所有の蒸気船『明光丸(800トン)』と、長崎から大阪に向っていた、坂本龍馬率いる土佐海援隊が伊予国大洲藩(愛媛県大洲市)から借り上げていた蒸気船『伊呂波(いろは)丸(160トン)』とが衝突して、伊呂波(いろは)丸が沈没してしまいました。

 

伊呂波(いろは)丸の乗り組み員は全員、紀州藩の明光丸に乗り移って無事でした。

当然の事、明光丸側、いろは丸側、双方ともに、責任は相手側にあると主張して譲りませんでした。

 

 

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明光丸の船長だった高柳楠之助(田辺藩安藤家の家臣)が、衝突の原因がどちらの過失なのか、長崎で外国船の船長の意見を聞いたうえで、賠償問題について話あうことを提言しました。

しかし、才谷梅太郎の変名で伊呂波丸に乗り組んでいた坂本龍馬は、衝突現場近くでの交渉で解決すべきだと主張したと伝えられています。

 

結局交渉は長崎において、紀州藩勘定奉行茂田一次郎と土佐藩家老後藤象二郎との間で行われました。

日本で最初の蒸気船同士の衝突事故で、互いに航海日誌を持ち出しての談判も初めてのことだったわけです。

 
交渉が行われている間、坂本龍馬たち土佐海援隊は、「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」といった紀州藩を批判する歌(俗謡)を長崎で流行らせたり、万国公法を持ち出して明光丸側の過失を追求したり、第2次長州戦争で幕府に勝利した長州藩の桂小五郎と手を結んで、実力に訴えてでも損害を賠償させることを暗示したりと、いろいろと交渉に圧力を加えて来たと伝えられています。

 

結局、この交渉は、薩摩藩士五代才助の調停を得て、6月29日、紀州藩が土佐藩に8万3526両198文を10月末までに弁償することで一応決着しました。

これが、日本で最初の海難審判とされています。

 

坂本龍馬側は、ミニエー銃などの銃火器3万5630両や金塊・陶器など4万7896両198文を積んでいたと主張しているのですが、近年行われた調査では銃火器などは見つかっていません。

それに、万国公法は海事のことは扱っていなくて、賠償金算出の基準に使うことしかできません。

また、最近の研究では、いろは丸側にも重大な航行ミスがあったとする指摘もあります。

 

といことで、坂本龍馬の政治力、交渉力、広範囲な人脈を駆使した戦いに、御三家の紀州藩が敗北した事件でした。

土佐藩側に、紀州藩側の旧態依然とした体制を徹底的に利用された戦いだったのだと思います。

 

当然、紀州藩としては、この一方的な交渉結果に強い不満を持つことになります。

茂田一次郎に御役御免・謹慎の処分を下しして、岩橋轍輔を勘定奉行付とし、交渉のやり直しを命じました。

 

岩橋は、藩命によって再交渉のために長崎にやって来たのですが、再交渉は難航を極めたわけです。

しかし、最終的に、土佐藩側の事情もあって、12月8日、賠償額を7万両とすることで交渉が成立しました。

 

当時の紀州藩の財政事情ですが、1866年時点で借入金120万両、それに第2次長州征伐の出費で40万両の借入金がプラスされていました。

そして、さらに、この事件によって7万両のの出費が必要になったわけで、最悪の状態になっていました。

 

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