エカワ珈琲店のブログ

和歌山市で営業している珈琲屋の雑話です

 
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昭和39年(1964年)、思い出すままに振り返ってみると

  

   

 

 

2000年代の中頃のこと、昭和39年頃の喫茶店で提供していたコーヒー1杯の値段について、何故か時々、問い合わせがありました。

その頃、エカワ珈琲店のホームページに「純喫茶コロナ物語」と題する記事を掲載していて、その記事を読んでの問い合わせだったわけです。

 

三丁目の夕日の時代 ’64(昭和39年)篇―写真と資料で読む昭和39年大図鑑!! (C&L MOOK)

三丁目の夕日の時代 ’64(昭和39年)篇―写真と資料で読む昭和39年大図鑑!! (C&L MOOK)

 

 

エカワ珈琲店の前身は、ビジネス街の小さな喫茶店で、屋号は「純喫茶コロナ」と称していました。

昭和30年(1950年)の秋に開店して、平成元年(1989年)に自家焙煎コーヒー豆小売専門店に商売替えするまでの物語を記事にしたのが、「純喫茶コロナ物語」です。

現在(2017年)は、noteを通じて有料で販売していますが、2000年代の中頃は、エカワ珈琲店のホームページで、記事全文を無料で読んで頂けました。

 

昭和39年(1964年)といえば、エカワ珈琲店の店主は、まだ中学1年生でした。

母親が喫茶店を経営していたので、当時の喫茶メニューについては、漠然としてですが覚えています。

 

当時、コーヒー1杯の価格は60円くらいだったと思うのですが、はっきりと、自信を持って断言することができません。

1960年代の前半は喫茶店の黄金時代で、朝から晩まで、ひっきりなしにお客さんが来店してくれた時代です。

ちょうど、最盛期のスターバックスと同じような状況で、経営者にとっては、笑いの止まらない日々が続いていました。

 

中学1年生といえば、ちょっとおませになって来る年齢ですから、大雑把なのですが、時代の雰囲気みたいなものを50年以上経過した今(2017年)でも覚えています。

そこで、喫茶店でのコーヒー1杯の値段はさて置き、昭和39年の出来事を書き出してみることにしました。

 
昭和39年の5月、当時の若者に、ものすごく影響を与えることになる『平凡パンチ』が創刊されました。

この『平凡パンチ』に影響を受けた世代も、今(2017年)では、60代、70代のおじさん(orおじいさん)です。

当時、時代をリードするメディアは、おそらく、雑誌メディアの中に存在していたのだと思います。

 

1964年、昭和39年といえば、やはり『東京オリンピック』です。

94の国と地域が参加した、このスポーツの祭典で、日本は、金メダルを16個、銀メダルを5個、銅メダルを8個獲得しています。

 

東京オリンピックの記念切手を購入するのに、朝の早くから郵便局の前に並んだ記憶があります。

当時の少年たちの間では、少年雑誌の影響だと思うのですが、記念切手を定価で購入して値上がりを期待するという遊び(記念切手の収集)が流行していました。

少年雑誌に掲載されている切手商の広告で記念切手の相場価格を確認して、一喜一憂していました。(今から考えると、馬鹿馬鹿しい話ですが)

 
セリーグでは阪神タイガース、パリーグでは南海ホークスがリーグ優勝を飾り、大阪の北に本社のある阪神電鉄と、南に本社のある南海電鉄の対決ということで、この年の日本シリーズは、『御堂筋シリーズ』と呼ばれました。

 

当時も今(2017年)も、エカワ珈琲店の店主は、阪神タイガーズのファンです。

この年の夏休み、阪神甲子園球場で開催される阪神戦を2度観戦しに行きました。

行き返りの交通手段に、南海電車と大阪地下鉄、そして阪神電車を使うのですが、難波発和歌山市駅行き南海電車の終電の都合で、2度とも試合の途中で球場を後にしたのを覚えています。

 

東海道新幹線が全面開通して、名神高速道路も、ほぼ全線開通した年です。

西郷輝彦のデビュー曲『君だけを』がヒットして、少年サンデーに『オバケのQ太郎』の連載が開始され、NHKで『ひょっこりひょうたん島』の放映が始まりました。

 

当時(昭和39年)、エカワ珈琲店の店主は、経済的に恵まれた環境にある少年でした。

中一時代、中一コース、少年マガジン、少年サンデー、少年キングを愛読していて、毎週、あるいは毎月、書店から配達してもらっていました。

自宅兼店舗の形で喫茶店を営んでいましたから、週刊平凡、週刊明星、週刊ベースボールやスポーツ新聞も読んでいた記憶があります。

 
和歌山県に関係する出来事として、賠償千恵子の「この道歩めば」というレコードがきっかけとなって、当時、和歌山県伊都郡かつらぎ町の伊都高校で先生をしていた窪田忠香さんが、昭和39年1月、シンガポールで別れ離れになっていた、作曲家の鈴木道明さんと再会したというニュースがあります。
 
「この道歩めば」の作詞は窪田さんで、シンガポールの陸軍病院で、鈴木さんに曲をつけてくれるように頼んでいたのですが、その後、別れ離れになってしまったということです。
 
たまたまレコード店で、このレコードを手にした窪田さんが、自分の詩であるのに気づいて、連絡を入れたのがきっかけの再会でした。
この時、窪田さんは42歳、鈴木さんは44歳でした。